「酔いどれ路地の朝」


酔いどれ路地の朝

1989年の8月の終わり頃、
バイト先の北浜地下の書店で立ち読みをしていた僕は
情報誌「エルマガジン」のライブ欄を見て、あれれとつぶやいた。
「Bハウス:9/1 ドクトルミキ」とある。

その頃、毎月一回 僕はベースの谷池泰典君と組んで、
「ドクトルミキバンド」名義でライブをやっていたが、
9月の出演はもっと後のはずだった。

何かの間違いと思い、あわててBハウスのマスター、徳原武さんに電話すると
「ごめんごめん、急に穴があいちゃってミキくんをいれたんやけど、
連絡するの忘れちゃってたんだよ〜 何とか頼むね〜」とのこと。

自分は出られるが、組んでいる谷池君に聞いてみると、その日は無理だった。
ひさしぶりのソロか。まあええわ。ちょろいもんや。
「腕を見せたるわ〜。」
後少しで31才に成るその頃の僕は、自信過剰で
その割にへこんでばかりいたくせに、性懲りも無く思ったのだった。

さて9/1。
いつもの出演日は第2金曜だったか、第3金曜だったか忘れたが
その1日が金曜だったかまでは、実は覚えていない。
ただいつものように雨が降っていた。

当事、工場の煙突が巻いた「ばい煙」が、週末金曜あたりに決まって
雨を降らすんや、と誰かが云っていた。
それでレギュラー出演日は雨ばっかりだったような記憶があるが、
実際は心が雨だった、というほうが合っているだろう。

ウケなかった。
お客さんは多いのだが、いつもの顔ぶれではなく
この唄ならどや、ほならこれは、がことごとくはずれ
しまいには、パラパラの拍手までがとだえてきて
ついにある曲で、ジャラーンとギターのエンディングの後、
しーんと静寂。
人生初のライブ拍手なしを経験した。

 出始めの頃、お客さんの喧噪うずまく中の演奏では、
 まるで戦っているような反応があった。
 僕らの演奏が終わると、まばらな拍手とともに
 お客さんの声も、休憩するように静かになる。
 また僕らが演奏を元気よく始めると
 お客さんもその音に負けじと話声のボルテージを上げる。

 Bハウスは基本的に、うまくて手ごろな値段の料理が売りの酒場だった。
 お客さんも「まあ良けりゃ聞いたろ
 あかなんだら、聞けへんで〜」という感じだったのである
 
 ライブが終わり、ギャラの4000円を握りしめ
 谷池くんと桃谷の商店街を歩く頃には
 もう頭は真っ白。

 駅前のたしか谷中屋という飲み屋でジョッキを二人握りしめ
 「どうしたらもっと聞いてもらえるんやろ〜」
 とうつむくばかり。

 でも根が阿呆やから、あれは何かの間違い、
 次ぎこそ大喝采や〜と、二人また桃谷に出発する
 そんな繰り替えしだったのだ。

 しかし1〜2年もすると、聞いてくれるお客さんがぼつぼつ現れ、
 「ジャニス、もう忘れよう」とか名物曲も出来、
 自信を持ち始めていた矢先だった。

で、最悪に受けなかった9/1のソロライブ。
僕はヘコミ、店の中からは、ことさらコメントもなく
いつも励ましてくれる厨房の高仲くん(彼も唄ってた)も黙り込み
僕はただギャラをもらい、頭を下げ、すごすごと店を出た。

手にしてたギターD-28は、近々後輩に売ることが決まってて
最後の使用だったのに、なんちゅう結果。 ギターケースがやたら重い。

パチンコ屋の店先のシャッターの前の
歩行者の雨靴で濡れそぼった鋪道に
酔いどれじいさんが一人座り込み
しゃがれた声で「ずいばせん・・ずいばせん」
とくりかえし、つぶやいていた。

「誰にあやまっとんねん」と不機嫌につぶやいた僕は、
まるで自分の姿を見てるようでたまらず
足早に桃谷駅の改札を通った。
飲み屋に向かう気もおこらなかった。
早く寝床で傷をなめ、眠ってしまいたかったのである。

けど、家に帰っても悔しさで眠れなかった。
ところが明け方ふと本をめくっていて気になる言葉を見た。
大好きな詩人、鮎川信夫さんの対談集の中にあった言葉。
「大体辛いなんてことは、たいてい気のせいなんだよ。」

僕は明かりをつけ歌詞を書き始めた。
すぐに最後まで書けた。
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Friday Night,Rainy Night
詞/曲 ドクトルミキ ’89 9/2

夢の終わりが来たのかな
お前もヤキが回ったと
ついてない事ばかりさ
このギターも人手に渡る

けれど俺は知っている
みんな気のせいだってこと
あんたが辛いとしたら
それはたいてい気のせいだって

Friday Night,Rainy Night
灯りの下 小さな店
俺は唄うけど 誰も聞いてない
唄が終わっても 拍手も無い
けれどBaby どこかで誰かが聞いててくれるもの
床が傾いているよ
滑り落ちないで Baby

帰り道の濡れた舗道で
酔いどれ爺さん座り込み
道行く人みんなに
何か謝っている

けれど俺は知っている
みんな気のせいだってこと
あんたが辛いとしたら
それはたいてい気のせいだって

Friday Night,Rainy Night
灯りの下 小さな店
俺は唄うけど 誰も聞いてない
唄が終わっても 拍手も無い
けれどBaby どこかで誰かが聞いててくれるもの
床が傾いているよ
滑り落ちないで Baby
Friday Night,Rainy Night
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さびの部分最後の「床が傾いている」という所は、
子供のころ行った遊園地の「びっくりハウス」に
錯角を利用した部屋で、実は傾いているのに真直ぐに見える床の部屋があり
そこに立ってみた時の妙に苦しい感じを思い出して、
うけないのに、がんばって唄わなあかん感じにたとえた。

曲もすぐ出来た。
その頃心酔してたジョン・プラインの「ドナルドとリディア」
みたいなカントリーワルツにして、もう明け方6時前だったか
本気で唄った。

そして買ったばかりのヤマハの4チャンネルのMTRを引っ張り出すと
すぐ多重録音をしてみたのである。
これがD28の僕の手許における最後の仕事になった。
「ついてない事ばかりさ/このギターも人手に渡る」
も、本当のことだったのだ。

その後、僕はしばらくして
「Friday Night,Rainy Night」を
Bハウスでも唄いだした。

地味な唄やから、お客さんの反応は大した事はなかったのだけど、
厨房でいつも聞いててくれる高仲くんが、気に入ってカバーしてくれて
そのことから、やはり店のスタッフで弾き語りの坂(ばん)君、
店の弾き語りのエースだったA-Show君、広島から来てた横張くんなど
何人かの唄い手によって唄ってもらえることになった。

面白いのは最初の高仲くんのカバーが
僕の原曲のワルツを、スローバラードでアレンジしていために
みんなはそっちのアレンジで唄い始めたことだった。

やがて高仲くんとウエイトレスの由巳ちゃんが結婚して
Bハウスでお祝パーティをした時、僕が唄ったのは
「Friday Night,Rainy Night」だった。
僕は趣味だった写真を二人のために撮り、つくったアルバムに
この唄の最初に書いた歌詞を貼付けた。

高仲くんや由巳ちゃんだけは聞いていてくれてる。
店のライブでの、僕の大事な心の支えの二人だったのだ。
唄うたいだったら解るだろう。
聞いて無い百人のお客さんより
聞いてくれる一人のお客さんのほうが嬉しい。
でもその一人を作るのは、良い唄を書きたい、書かねばという
本人の意志の持続だ。

やがてBハウスは経営者が変わる事になった。
僕ら元の唄うたいは、一時全員解雇されることになるが、
徳原さんたちの最後の営業日に、出演してた大半の唄うたいが集まり、
さよならライブが行われた。
その時、「Stand By Me」に見事な歌詞をつけて唄う歌手がいた。
ひどく痩せてクールな男、石山雅人だった。
彼との友情は今も続いているのは御存じの通り。
Dylan's Childrenの萌芽の夜だった。

やがて東京に帰った高仲家には二人の娘が出来、
石山雅人はBハウスの常連客の豊子ちゃんと結ばれ、
僕は厳しく長かったあの時代を祝うため、にまた唄を書いた。
それが「酔いどれ路地の朝(あした)」だ。
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酔いどれ路地の朝(あした)
詞/曲 ドクトルミキ ’93 3/2

しらふなら取り付くしまも無く
酔っ払えばからんでタチの悪い
ウィスキーのひと雫なのさ
あんたら唄うたいは

勿論俺もその一人って訳さ
幸せすぎる目出度いこの国で
俺だって充分カワイソウ過ぎたさ
でもそれがどうしたって云うんだ

酔いどれ路地のあしたに
お前を見つけたのさ
明日ふるさとの町に
お前を見せに行くのさ
お前と俺の小さな娘を
太陽にかざしに行くのさ
酔いどれ路地のあしたを越えて

不貞腐れたツラでほっつき歩いて
ヤクザに殴られた酔いどれ路地
でもギターだけは何とかかばった
大事なものはそれだけだった頃

酔いどれ路地のあしたに
お前を見つけたのさ
明日ふるさとの町に
お前を見せに行くのさ
お前と俺の小さな娘を
太陽にかざしに行くのさ
酔いどれ路地のあしたを越えて

しらふなら取り付くしまも無く
酔っ払えばからんでタチの悪い
ウィスキーのひと雫なのさ
俺たち唄うたいは
俺たち唄うたいは

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実はヤクザに殴られちゃったのは、僕ではなく
あの頃からメランコリックだったA-Show君だったのだが
ある意味ロマンチックな出来事だったので
自分の事として、歌詞にさせていただいた。

このまま録音はしたのだが
最近のライブではAメロの2コーラス目を
「勿論俺もその一人って訳さ/幸せすぎる目出度いこの国で
俺だって充分お笑い草だった/でもそれがどうしたって云うんだ」
と唄っている。

また昔、徳原さんたちの頃のBハウスの味と雰囲気は
今里を本店とする居酒屋「JINANBO」と「そらり」に
そのまま受け継がれている。一度のぞいてみてはいかがだろうか。

もう10年以上軽くたってしまった。
実は最近、あの頃のことを嫌でも思い出す事件があったので
追憶にふけってしまったけれど、
「酔いどれ路地の朝(あした)」も「フライデイナイト、レイニイナイト」も
古い唄なのであまり唄ってなかったのである。

しかし今また唄ってみると、心はすぐさま蘇る。
今も無名な僕だけれど「希望をすてるな」と
あの頃の自分が必死に云うのである。     ドクトルミキ
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(この2曲は最終的に6曲いりのミニアルバム
「酔いどれ路地の朝(あした)」に収録しました。
古い時期の録音が多いので(カセット時代)音はたいしたことはないけど
興味のある方は聞いて見てください。
ただし「Friday Night,Rainy Night」は
「フライデイナイト、レイニイナイト」として新しく録音したものを
収録してあります。古い録音は次回アルバム、「忘れ物」に収録予定です。)